私【 I / me】

  「わたくし」とよむ人称代名詞で自分自身を表している。自分という個人、その主体性は、「私」という象形文字に、その原意を本質が象徴化されている。「禾=稲」と「ム=取り込んで自分のものにする」という意味は、まさしく欲望のある存在としての自己を表している。また、「公=おおやけ」の対立概念として、集団と個人の存在を、欲望を基軸として捉え直すことができる。「背私向公」という中国的論理と同様に、日本では「滅私奉公」という言葉に、この対概念がみごとに表れている。「公」とは大きな家を意味する。家という集団の中での個人として「私」は個人的な欲望への禁欲や自己の役割の限定絵を習慣的に取り決めている。しかし、このような東洋的な、儒教的な「公私」の関係性は歴史の変遷や社会の風潮から、その価値観、特に論理間のなかでは大きく変容してきている。近世には、「わたし」という口語が一般化し、「家」や「公」に対する自己証明や自己存在性の確率とともに、個性の保全、あるいは集団と個人との関係価値の逆転が起こった。第二次世界大戦には、米国的な「私事」の重要視が、「家」や「公」を否定し、主体かつ主観を「私」においた価値意識がはびこることとなった。それは、「わたし=プライバシー」の重要視につながっている。プライバシー、すなわち「私概念の価値」の法律的な定義は、集団・公と、個・私との構造主義的な関係性のうえに成立している。プライバシーは、「他から観察されない、自己確保性の保護」が当初の意味であり、さらに、情報化の進展によって、プライバシーの保護・保全の確約が重要視されてきた。つまり「他から観察されないことを前提とし、他者による個人的な情報侵害や変更などを拒絶する権利=個人情報の保全と管理」として、プライバシー、つまり「私」という自由性そのものが、現代の民主主義の根幹をなしている。しかしながら、「滅私奉公」は、ノブレス・オブリージュ=高貴な義務という「公」にたいする「私」のきわめて正義性のある倫理と論理であるというのが正当な「私」を実存させる。武士道、騎士道、紳士淑女の倫理観として最重要であるという意義は、人間の倫理観として少しも変容していないと私は認識している。

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