ドキュメンタリー【Documentary】

  文書や証書、あるいは事実記事という意味でのラテン語documentumを語源としている。1920年代に、記録映画作家であるジョン・グリアソンによって、ドキュメンタリー=事実の記録という呼称になったと言われている。映画による記録ということでは、映画の父と呼ばれているリュミール兄弟によって「工場の出口」が撮影された。これがドキュメンタリーフィルムの原点と言われている。以後、人物、自然の情景、事件の経過など、世界の解釈という定義から、生きた現実、生きた情景、生きたテーマの劇化というアクチュアリティ(事実)の創造的劇化という定義がなされた。 ドキュメンタリーに関しては、さまざまな考察や見解があるが、共通認識は「記録」という1点に集約されている。当初は、カメラによる事実の記録ということへの高い信頼感が持たれていた。ところが昨今、映像表現のさまざまな技法や編集の習熟によって、この認識は希薄になっていく。編集のための撮影という主従関係の逆転が起こり、編集重視の傾向が強まることで、撮影者の主観性が介在するようになり、それに対する信頼と偏見が交錯するようになってしまったからである。そして、記録(事実を映像化する)に対する信頼性や、監修性があらためて問われることになってきた。これはつまり、撮影者のジャーナリズムへの職能観や哲学、撮影対象に対しての関係までが、作品という記録に反映されるからである。言い方を変えれば、ドキュメンタリーという表現形式において、撮影・編集・監修・監督・記録・発信といった制作手法の再検討が必要であるということだ。特に、映像編集は、デジタル技術によって、事実とバーチャルが混在し、その経緯・痕跡を確認することが困難になっている。こうした困難に対しては、撮影者・編集者の職能倫理に期待する以外その手立てがないのかもしれない。しかし、それでも記録としてのドキュメンタリーという表現形式は重要である。   

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