余暇【Leisure】

  余暇ということが、わが国で意識され始めたのは、1960年代の高度経済成長政策時代に入ってからである。それが、「レジャー」という言葉となった。本来は、lesierというフランス古語であり、これはラテン語のlicere=「許可された時間や状態、意識」から派生している。人間は日常的には、労働や家事、学業等からは解放されず、義務的で必然的な拘束がある。その拘束から自由になれることが約束されたとき、余暇= レジャーという時間や状況を持つことができる。歴史的に見ても、社会構造のなかのレジャー量(時間)は、個人的な技術力や経済力と比例している。例えば、富裕層のレジャーの内容や形式は、大衆のそれとは一線を画している。
 余暇が一般的な価値性を持つに至った背景には、大量生産・大量消費の大衆社会の実現がある。労働や勤労という拘束から解放され、可処分時間を持つことによって、余暇の内在性が求められるようになった。そこに、大衆社会的文化の創出との大きな関係が生まれ、余暇に対するサービス産業が一段と増加し、余暇による直接的な文化創出にまで至った。これは、新たな勤労形式を生み出した。余暇が勤労を再生産するという逆転現象にまでなりつつある。余暇時間が勤労時間よりも多くなるということである。またそれが脱工業化社会から情報化社会を導引した1つの要因となっている。  余暇と文化の問題は、すぐれて人間論的であり、集団と管理、個人の個性と労働の構造論でもある。論理的には、余暇への態度が、個々人の個性化、平和化、商業化へと繋がっている。しかし、商業科に対しては、大きな難問が生まれている。商業的な余暇の生産、つまり、マス・レジャーによって、大衆を別の次元で拘束するという重層的な問題である。余暇を資本主義が拘束しているという問題は、文化創出とはどのような関係があるのか。こうした、私たちの文化への態度においては、社会と余暇、時代と労働、勤労と余暇というサイクルを再検証しなければならない。  デザインが余暇を支援できるとするならば、それは勤労や労働からの解放を直接的に結びつけるモノやコトのデザインではない。余暇と文化の価値体系づくりそのものに関与することである。   

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